川原正孝(ふくや社長)の経歴と年収!兄弟や息子は?辛子明太子誕生秘話も

福岡の博多といえばまず思い浮かぶのが明太子です。
たくさん名物はありますが特に地元の方が愛している食べ物として有名な明太子はなんと福岡県内だけでも150以上のメーカーが存在しているそうです。
この激戦区の中でも売り上げNo.1に輝いているのが「ふくや」というメーカー。そこの社長を務めているのが川原正孝さんです。
今回は社長・川原正孝さんと共に「ふくや」の驚きの経営術についてまとめてみました。
ぜひご覧下さい♪

川原正孝の経歴と年収は?

川原正孝2
名前:川原正孝(かわはら まさたか)
生年月日:1950年3月18日
出身:福岡県福岡市博多区
学歴:福岡高校・甲南大学

川原正孝さんは博多祇園山笠に参加するほど、昔から山笠への情熱は凄いものがあるそうです。

大学では高校から続けてきた空手に没頭する毎日で授業はそっちのけだったとか。
そのせいかあまり大企業のサラリーマンという人生には興味が無く、運送アルバイトをそのまま自分の仕事にしようと考えていたそうです。

ですが大学卒業後に博多へ帰ってくると思っていた母親は川原正孝さんの兄である健さんに相談。

兄の健さんが当時勤めていた福岡相互銀行の面接を川原正孝さんは受けることになります。

結果的に兄のコネでの入社ということになった川原正孝さん。
しかし実は入社試験での成績は最下位
やはり、コネ入社ということに多少後ろめたさがあったのか同期には負けられないと川原正孝さんは仕事を頑張ります。

「兄のコネと試験も最下位入社という後ろめたさがあった。だから、絶対に同期には負けられないと、強く意識はしていました」。

コネで入社などという陰口を言われる暇も無いほどに1日に最大100件もの顧客を周り

ライバル会社の顧客を調べた上で片っ端からデータベース化

後に「川原日誌」と呼ばれる日誌は営業モデルとして参考にされるほど

入社6年目で同期の中では成績トップ支店長代理として就任されます。
29歳の時にはエリートコースの労働組合中央執行委員長に就任。

順風満帆かと思われた川原正孝さんの銀行員人生。
ここで転機が訪れます。

川原正孝さんの父・俊夫さんから「家業を手伝って欲しい」と連絡が兄弟にあったのです。
父・俊夫さんは体調が非情に悪かったこともあり二人に任せたかったのでしょうね。

ですが兄の健さんは非情に銀行内で重要なポジションにありおいそれとすぐに転職は出来ない状態でした。
そこで川原正孝さんは悩んだ末に取締役営業部長としてふくやに転職をされます。

「銀行の仕事も乗りに乗っている時で、かなり悩みました。大学卒業時には家業を継ぐとは全く考えていませんでしたが、徐々にいつかは帰らねばならないかなとは思ってました。
昭和50年代に入ってから、ふくやは新幹線の開通などもあって事業は急速に拡大。一方で、親父の体調が良くないのは知っていました。ただ、家業を継ぐにしても、銀行の仕事は手を抜きませんでしたよ。”あいつは銀行でダメだったから家業に戻った”とは言われたくなかったんでね。戻るなら、トップの時に戻ろうと思っていました」。

川原正孝さんが「ふくや」に取締役営業部長として就任したとき、ふくやの年収は20億
店も行列ができ、満員ではあるが繁盛店にありがちな悪い見本となっていたようです。

「”いらっしゃませ”も”ありがとうございます”もない。それでも商品は売れる。だからますますつけ上がる。とにかく接客は最低でしたね」

銀行員時代に培った窓口対応能力で川原正孝さんは従業員への教育・研修を徹底しました。
もちろんこうすることで内部の反発もあったそうです。

「多くの2代目は、先代と一緒にやってきた古参社員を大事にする代わりに悪弊をも温存する。悪いとわかっていてもなかなか変えられないんです。でも、僕は学生時代から喧嘩には慣れていたし、銀行時代も相手が年上であろうと正しいと思うことは貫いてきた。
辞めた従業員の方には申し訳なかったが、商店を企業にせねば生き残れないと思っていたしね」。

川原正孝さんの「自分がこの悪い習慣を全部変えてやろう」という意気込みが伝わってきますね!

そして接客以外でも生産・品質管理なども徹底して行き、自社工場や本社ビル・支店も順調に増加していきます。
昭和59年には兄の健さんも専務として「ふくや」に転職。
兄弟揃っての進撃が始まります。

ふくや

現在「ふくや」の売り上げはなんと160億円以上だそうです。
川原正孝さんの正確な年収は記載があったわけでは無いのでわかりませんがこれだけの売り上げですから相当のものでは無いでしょうか?

川原正孝の兄弟や息子は?

川原正孝さんには前述したように兄の健さんがいらっしゃいます。
健さんは当時の福岡では珍しい、慶応大学卒の秀才だったそうです。
「あの健の弟ならいいだろう」という言葉からわかるように当時健さんは相当の信頼がおける銀行員だったんでしょうえ。

兄の健さんがいなければ今頃川原正孝さんはそのまま神戸の運送会社で働いていたでしょうね。

ちなみに今現在川原正孝さんのご家族に関しては特に情報がありませんでした。
ですが次の「ふくや」を次ぐとすればやはり川原正孝さんの息子さんになるでしょうか?

「ふくや」は地元で絶大な人気!辛子明太子誕生秘話!

現在「ふくや」は地元福岡では他を寄せ付けないNo1の存在となっています。
ですがいまでこそ名物として親しまれている明太子も当初は苦労の連続だったそうです。

韓国では親魚のスケトウダラとともに庶民の食べ物として親しまれていた。スケトウダラを「明太(ミョンテ)」といい、日本人はこれを「メンタイ」と呼んでいた。またその魚卵であるタラコも同じく「メンタイ」と呼ばれ、特に戦前に釜山に住んでいた日本人から愛好されていた。そこで、俊夫はこれを日本風に味付けし、「明太」の子だから「明太子」と名付け、売り出した。

こうして売りだしたものの、今と違い冷蔵庫も普及していなかったので日持ちがせず、まだ馴染みが薄いので売れない日々が続いたそうです。
それでも創業者の川原正孝さんの父・俊夫さんは試行錯誤を重ね、「おいしいものは必ず売れる」という信念のもと、日本人の口に合う、納得のいく明太子が完成しました。
実に10年余りの歳月がかかったそうです。

普通、こうして試行錯誤した製法は特許をとったりしますが川原正孝さんの父・俊夫さんは逆に製法を広めました。
誰が使ってもいい、いろんな味があっていいということで特許をとらなかったとか。
その結果、今の福岡に明太子屋がたくさんできたそうです。

川原正孝3

もし特許をとっていたら独占となってしまいここまで福岡にめんたいこの「業界」はできなかった。と川原正孝さんは語ります。
まさに「ふくや」は明太子という素材を全国に広めた立役者だったということですね。

管理人のまとめ

良い物をより安くというこだわりを徹底している「ふくや」。
売り上げはもちろん大事ではありますが、儲けにばかり走るだけではなく自分の姿勢を貫いている所は素晴らしいことだと思います。
今後も博多の明太子市場を牽引して行って欲しいものですね♪
川原正孝さんは5月28日のカンブリア宮殿に出演されます。ご本人からどんな話が聞けるか、楽しみですね~★

最後まで読んで頂きありがとうございました☆彡

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